黒田藩士 平野国臣

黒田藩士平野国臣ひらのくにおみ

①西郷隆盛が月照とともに錦江湾に身を投げた船に同乗していた。
②生田の変の首謀者として37歳で斬首された。兵庫県。
③鹿児島を三回訪問している。
④桜島の歌を詠んだ。


我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば

煙はうすし桜島山
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井上マスの日記「斉彬の死」 memo

安政五年1858年。
藩主斉彬は天保山の調練場で操練を見ていた。
真夏の太陽が焼きつくすように熱い砂地。七月八日のことだ。
朝から体調はすぐれなかった。
釣り好きな彼は通常は待たせていた釣り船で楽しむ。
前日に釣った大きなサバを酢漬けにして食べていた。
コレが原因かも知れなかった。
10日から高熱と下痢に苦しんでいる。
記録によれば11日40回。12日33回の下痢の数とある。
15日。側近に招集をたのみ久光がかけつけている。
16日未明の死は極めてドラマ仕立てだ。

裏資料として江戸チンの語りが残っている。
調査の必要あり。通称江戸チン小間使いの井上マスのことだ。井上マスという実在の人物の物語る斉彬を題材に選べばフィクションとしても成立しやすいと思える。

井上マスの日記なかなかおもしろい。

全ての記事をもう一度書き直して行きましょう。

使いやすいノートを手に入れたと思い込んでいました。だからどんどん書き足してしまいました。他のブログで書き足りなかったことを書きました。整理しきれない資料をランダムに落としておきました。ここのブログは落書き帳になってしまいました。
私個人の資料室にしてしまおうと思います。ソウオモッテイマシタ。

調所広郷。西郷隆盛。小松帯刀。島津重豪。
大久保利通。坂本龍馬。井伊直弼。島津斉彬。久光。・・・全て未完のままです。

島津斉彬・・から

文化六年1809年秋島津斉彬は島津家二十七代斉興(なりおき)の長子として江戸の薩摩邸に生まれた。
時の将軍は家斉。その夫人広大院は斉彬の曾祖父重豪(しげひで)の娘茂姫であり。斉彬にとっては大叔母にあたる。

幕府の執政者がハレモノ扱いする当時の天下の三隠居とは将軍家斉の父親一橋治済・備前岡山の池田一心斉そして島津重豪のことだった。

煩雑になることを恐れずに続けます。

三人の中でも重豪と治済は仲のよいことで有名だった。斉彬の婚姻も二人が決めた。一橋斉敦の娘英姫との婚約は斉彬四歳。三つ年上の姉さん女房である。
一橋家は将軍の実家で。斉敦は家斉の実弟。つまり英姫は将軍の姪にあたる。婚儀は斉彬18歳。英姫は生涯薩摩には来ていない。

また

中津藩主奥平昌高。筑前の黒田斉溥(ひろ)。八戸の南部信順などは島津家から養子に行った者たち。斉彬の大叔父にあたる。

斉彬の次弟久寧は岡山藩池田斉政の養子となった。妹祝姫は土佐の山内豊に嫁いだ。その養子が斉彬に次ぐ幕末の名君山内容堂である。

「高橋くずれ」の頃の西郷隆盛



嘉永三年1850年3月
赤山靱負は家来西郷吉兵衛に自刃の解釈を依頼し遺言を残しました。
その時の血染めの服をかたみに残しています。
吉兵衛の息子吉之助はこのとき24歳。少年と呼ぶには少々歳を取りすぎた後の西郷隆盛です。少なくともこの時点で彼は何もしていません。何もできない状況。何もできないただの男でしかなかったわけです。


薩摩藩の藩主の家島津家のお家騒動を「高橋くずれ」あるいは「お由羅騒動」と呼びます。名君と謳われた島津斉彬が藩主に納まるための内部騒動です。
時代劇などでは恥をかかされた武士がよく腹を切りますが。実際に切腹した記録はそれほど多くはないと聞かされています。けれども薩摩藩においては事情が少し違います。実に多くの武士が腹を切った。その記録が残っています。

この時。大久保次右衛門は喜界島流刑の処分を受けています。
大久保一蔵のちの大久保利通の父親です。大久保は西郷よりも三歳年下です。21歳になっていました。

吉之助は親戚の家まで出向いてたくさんの書物を借りて。一蔵とその父次右衛門に差し入れています。本を届ける役目をつとめたのは吉之助のかわいがっていた従兄弟大山弥助七歳。日露戦争の際の総司令官大山巌です。

薩摩では五.六歳から十二.三歳までの前髪のお子様のことを「稚児」と呼びます。元服をすませ前髪をおろした二十三.四歳は「二才」です。
「青二才のくせに」の二才です。

西郷・大久保二才のころのお話です。彼らは稚児さんの頃からの親友でした。調所広郷のかけた石橋のしたで遊びながらその調所のしかけた陰謀に巻き込まれながらニートの時代を苦しんでいました。
時代にしては遅すぎるスタートを切ろうとしていたのです。


これからココに記されるモノは物語と呼べるしろものではありません。
できることなら物語の高みまで昇華して欲しいと願いながらメモを残します。

続 調所広郷はトンでもない男です

調所広郷


文政の末期。間薩摩藩が抱えていた負債は500万両を越えていたと言います。藩の石高が73万石ですから途方もない負債であったことは間違いありません。


当時の相場で米500万石およそ75万トンに相当し。現在の時価でおよそ2兆円を越えているとのことです。


 広郷は茶坊主出身だったのです。


城下士最下級の御小姓組に属していた人物の大抜擢がおこなわれました。二十五代藩主島津重豪(しまずしげひで)のしごとです。調所広郷は大事業を成し遂げ家老に抜擢されました。


 調所広郷は幕末から明治維新にまで繋がる日本史の大舞台を影からささえた人物です。経済的な基盤なしにあんな舞台は成立しませんでした。


彼が全権をもった財政担当に任命された年に西郷隆盛が生まれています。


1827年のできごとです。


      

桜の花は残っています。

sakura


雨があがりました。
予想がはずれました。うれしい考え違いです。
桜の木は雨と風に耐えていました。

花はたくさん残っていました。
地面は濡れて花見の人は出てはいません。
けれども花は残っていました。

強い風。北からの風もここちよい雨上がりの午後です。

昨夜からの激しい雨と
北からの強い風に
全ての花は落ちてしまったものと考えていました。

弱いのは人間ばかりで。私ばかりで。
桜は。桜の木は風雨に耐え。花を残して立っていました。

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雪虫の伝説

Author:雪虫の伝説
ここにもひとつ陣地を作りました。秘密の基地です。

誰かに読んで欲しい。誰にも読んで欲しくない。ふたつの思いが凌ぎあいます。ココは秘密の陣地にすることにしました。隠れ切れているでしょうか。

そんな設定も可能なはずです。


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